本当のパリ、本当のテキサス、本当のノースポール|Life Is Like A Movie

プーさんのシリーズに、『プーのほっきょくたんけん』というのがある。クリストファー・ロビンとプーさんとその他大勢が、北極を探して冒険の旅に出るというストーリーだ。終盤、クリストファー・ロビンがただの長い木の棒を北極と名付けて物語は終わる。

なぜ木の棒と思われるかもしれないが、北極は英語で「ノースポール」。直訳すると北の棒だ。だから、本当の北極を知らないクリストファー・ロビンは、北極は棒のようなものだと思っていたのだ。ただの木の棒に対して、世紀の大発見のように「これが北極なんだ」と嬉しそうに叫ぶクリストファー・ロビンがなんとも愛しい。

『パリ、テキサス』というタイトルを初めて見たとき、ポスターやパッケージのビビッドなイメージも相まってフランスのパリとアメリカのテキサス州の2つの舞台を行き来する映画なのだろうと思っていた。

映画の序盤で、パリとはテキサス州北東部に位置する都市のことだと分かると、「本当のパリじゃないじゃないか!タイトル詐欺だ!」と思った(テキサス州のパリ住んでいる人に「こっちが本当のパリだ!」と怒られそうだが)。

『パリ、テキサス』はどの登場人物の視点に立つのかによって、物語の印象が大きく変わる映画だ。ジェーンにとってはこの上ないハッピーエンドだが、弟夫婦、とくにアンにとっては喪失という言葉では言い表せないほどの絶望を味わうストーリーになっている。

私は、映画が終わった後でも彼らの人生は続くと信じている。だからよく、映画が終わったあとのそれぞれの人生を想像してしまう。ハンターはきっともうアンの元には戻らない。鑑賞者も製作者も踏み入ることができないエンドロールが終わった世界で、アンはどうやって生きていったのだろう。

トラヴィスはウォルトとアンに会いにいったのだろうか。ハンターという、ふたりにとって精神的支柱とも言うべき存在を奪ったことを、謝っただろうか。いや、きっとしない。トラヴィスは自分しか存在しない世界を生きている。だから、悪いことをしたという気持ちすらないだろう。

こうなる運命だったと言ってしまえば元も子もないが、そこまで本当の親の力、つまり血の力の前に他人は無力なのだろうか。どんなに愛情を注いでいても、血には勝てないのだろうか。

本当の親、本当の愛、本当の友達——。私たちはいつだって本当という青い鳥を追い求めている。ブランドの財布や洋服を買ったとき、どんなに精巧に作られていたとしてもそれが偽物だと分かったら、もうそれに価値を感じなくなる。

人間には、本当を追い求めてしまう本能があると思う。育ての親をどれだけ愛していても、それでも産みの親に会いたくなるような本能が。産みの親とその後の人生をともに歩みたいわけではない。ただ本当を知りたいのだ。なぜ自分を捨てたのか、なぜ一緒に暮らす道を選ばなかったのか、それが知りたくなるだろうなと思う。

『パリ、テキサス』を一緒に見た友人にこの話をすると、「本当じゃないものが全部偽物かというとそれも違うと思う」と言われ、それも本当だと思った。

結局、偽物でもノースポールになることはあり得るし、それを他人が「それただの木の棒だよ」と言い放つことには何の意味もない。大事なのは偽物かどうかではなく、それがその人にとってのノースポールなのかどうかなのだ。

たとえ1日でも1分でも1秒でも、輝かしい思い出はその人を死ぬまで支えるノースポールになる。だから、アンはきっとエンドロールのあとも幸せに生きられたと思う。ハンターと過ごした日々が彼女のノースポールだろうから。

パリ、テキサス
1984年製作/146分/G/西ドイツ・フランス合作

1984年のロードムービーの傑作。砂漠を彷徨っていた記憶喪失の男トラヴィスは、4年ぶりに弟と再会する。彼は、生き別れた幼い息子ハンターと共に、妻ジェーンを探す旅に出る。再会した妻との会話を通して、トラヴィスは失われた過去、夫婦の愛と崩壊に向き合うことになる。全編を通して静謐で詩的な映像美と、ライ・クーダーのブルースギターが印象的な作品です。

この記事を書いた人
piiiyaaa

音楽と抽象的な映画と文学が好き。いちばん好きな映画は『永遠と一日』。いちばん見た映画は『ビッグ・リボウスキ』。ホラー映画とグロい映画は絶対に見ません。

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