私は読書が好きだ。読書好きな人と比べると読んだ冊数は圧倒的に少ないが、それでも好きなことのひとつだと言える。
先日、重い腰を上げてようやく『老人と海』を読んだ。先入観として持っていたような読みにくさはほとんどなく、読書歴の浅い私でも充分に楽しめた。男だからか、ヘミングウェイが描く渋い老人に惚れ込んだ。
ヘミングウェイとの接点は実はここが初めてではない。
「かつてヘミングウェイは言った。『この世は良いところだ。戦う価値がある』。後半の部分は賛成だ」
デヴィッド・フィンチャーの代表作『セブン』のラストのこの台詞。これが初めての出会いだった。
『セブン』は連続殺人犯のジョン・ドゥを追うサスペンス映画だ。有名な作品だから見たことがある人のほうが多いだろう。
ブラッド・ピット演じるミルズは、野心溢れる新米の刑事だ。手柄をあげるために妻のトレイシーの反対を押し切って、モーガン・フリーマン演じるサマセットが暮らす街へと引っ越してきた。
絶えず雨が降り続き、陰鬱な重さがのしかかる街。物語の舞台となるこの街が『セブン』において重要な要素である。具体的な名前を持たぬこの街でジョンは殺人を犯し続けるわけであるが、ジョンの殺人を除いたとしても決して良い街だとは言えない。
トレイシーは街が持つこの陰鬱さに居心地の悪さを感じる。この街で生まれ育ったサマセットに「この街が嫌い」とストレートにぶつけるほどだ。
サマセットは救いようのないこの世界に絶望している人間のひとりだ。かつて子どもを持てるチャンスがあったにもかかわらず、この腐り切った世界で育てていくことはできないと判断し、自身の妻に堕胎するようにと説得した。トレイシーも同じだ。この世界で子どもを生むべきかどうかを決めあぐねている。
生きてゆくことは難い。想像以上に幸福は脆く崩れやすい。不幸ではないことが幸福だと語る人だっている。そんな世界で子どもを——自分よりも愛する存在を——育てていけるのだろうか。
ジョン・ドゥのような狂気的な人間は世の中にごまんといる。口することすら憚られるような最期を遂げることは、何も珍しいことではない。
実際、『セブン』のラストではトレイシーがそうなってしまった。自分の子どもや愛する人が同じ最期を遂げたら、誰だってミルズになってしまう。どんな状況であっても殺人だけは犯してはならないのであれば、この世のほうが狂っているとすら思う。
果たして自分は生まれてこられて幸せなのだろうか?この世界が腐っていても子どもを産んで育てても良いのだろうか?良かったとして誰がその判断を下すのだろうか?いやこれは良し悪しで語るべき問いなのだろうか?そもそもこんな問いを立てること自体が人間の傲慢さなのではないか?矢継ぎ早に、答えのない暗澹とした考えが頭を埋め尽くす。
この終わりの見えない暗闇から抜け出すために我々は戦うしかない。たとえそれが茨の道だとしても、たとえこの身が滅んだとしても、戦うしかないのだ。
もしかすると何もせず、不幸に巻き込まれないようにひっそりと生きるほうがマシかもしれない。しかしそれでは死んでいるのも同然だ。戦う価値があるのではない。戦うことに価値があるのだ。
だから戦う。戦い続ける。
「この世は良いところだ。戦う価値がある」
いつかサマセットが前半部分にも賛成できる日が来るまで。
セブン
監督:デビッド・フィンチャー
1995年製作/126分/G/アメリカ
「エイリアン3」で映画監督デビューを果たしたデビッド・フィンチャーの長編映画2作目。独特のビジュアルセンスとダークな物語で大ヒットを記録し、鬼才デビッド・フィンチャーの名を一躍世界に広めたサスペンススリラー。
雨が降りしきる大都会。退職間際のベテラン刑事サマセットは、血気盛んな新人刑事ミルズとともに、犯罪史上類を見ない連続猟奇殺人事件を担当することになる。はじまりは月曜日。最初の事件現場では、極度の肥満の男が絶命するまで無理矢理食べさせられ続けて殺され、「GLUTTONY=大食」と書かれたメモが残されていた。翌火曜日。次は大物弁護士の死体が、血で書かれた「GREED=強欲」という文字と一緒に発見される。サマセットは、犯人がキリスト教の7つの大罪(憤怒・嫉妬・高慢・肉欲・怠惰・強欲・大食)に該当する者を狙っていると確信する。次の犯行を阻むため、捜査を続ける2人だったが……。
ミルズ役にブラッド・ピット、サマセット役にモーガン・フリーマン。2025年には、1995年の全米公開から30周年を記念して、フィンチャー監督が自ら監修した4K修復版がIMAXで公開。