映画を観終えたあと、エンドロールが流れているのに席を立てず、そのままぼんやりスクリーンを眺めてしまうことがある。すぐに感想を言葉にできるわけでもない。ただ、何かが確かに残っている。その正体が知りたくて、私はよく映画を「深掘り」する。制作背景を調べたり、監督のインタビューを読んだり、パンフレットを何度も読み返したりする。映画の深掘りって、本当に面白い。勝手ながら、まるで作家と静かに対話しているような感覚になる。
最初から知識が欲しいわけではない。むしろ逆で、「なぜ自分はこんなにも引っかかっているのか」が分からないから調べ始める。あのシーンはなぜ忘れられないのか、この台詞はなぜ胸に残ったのか。その答えを探すうちに、映画の奥へ奥へと引き込まれていく。
そんな経験を重ねる中で、私は映画の深掘りには二つの方向があるのではないか、と思うようになった。ひとつは、自分の内側に向かって掘っていく深掘りだ。映画を観たときの直感や感情を出発点にして、「自分はなぜこう感じたのか」を自分の価値観や経験、これまでの人生と照らし合わせて考えていく。私はこれを勝手に「内深掘り」と呼んでいる。
内深掘りをしていると、映画の感想がそのまま自己分析のようになることがある。なぜこの登場人物に共感したのか。なぜこの結末が苦しかったのか。そこには、今の自分が抱えている不安や願い、過去の記憶が色濃く反映されていることが多い。映画を語っているはずなのに、気づけば自分の話になっている。だが、その混ざり合いこそが映画体験のリアルなのだと思う。
もうひとつは、自分の外側に向かって掘っていく深掘りだ。監督や脚本家のインタビュー、制作時のエピソード、時代背景、影響を受けた作品などを通して、映画が生まれた文脈を辿っていく。こちらは「外深掘り」だ。外深掘りをすると、スクリーンの向こう側にいたはずの作り手が、急に生身の存在として立ち上がってくる。
私はインタビューを読むのが好きだ。そこには完成した映画からは見えない迷いや葛藤、妥協や偶然が語られていることが多い。「この表現にはそんな事情があったのか」と知った瞬間、映画の見え方がガラリと変わることがある。完成形だけを観ていたときには気づけなかった切実さが、後から胸に迫ってくる。
そして何より大切だと感じているのは、この内深掘りと外深掘りを、どちらか一方に偏らせないことだ。内深掘りだけを続けていると、解釈がどんどん自分の中で完結してしまい、視野が狭くなる危うさがある。一方で、外深掘りばかりを重ねると、誰かの言葉を借りて説明しているだけの感想になりやすい。映画を観た「自分」がどこかに置き去りになってしまう。
私にとって理想的なのは、まず映画をまっさらな状態で受け止め、自分の感覚を信じて内深掘りをすること。その上で、外深掘りによってその感覚を揺さぶられたり、裏切られたりすることだ。そうやって行き来する中で、映画は一度きりの体験ではなく、何度も更新されていく存在になる。面白いのが外深掘りをしていくうちに知的体力が着くのか、以前には届かなかった境地まで内深堀りができることに気付く事もある。まるでシャベルやスコップをバージョンアップしたみたいな感じになるのだ。
映画を深掘りすることは、正解を見つける行為ではない。むしろ、問いを増やしていく行為だと思う。だから時間が経ってから観返すと、まったく違う映画に見えることもある。それでもいいし、それがいい。映画と一緒に、自分自身も少しずつ変わっていける。私はその感覚が好きで、今日もまた一本の映画を深掘りしている。
