『ポンヌフの恋人』は恋愛映画という枠に収まりきらない、きわめて特異な熱量を放つ作品である。セーヌ川に架かる悠久の橋ポン・ヌフを舞台に、孤独な男女が出会い、傷つけ合い、激しく惹かれ合う。その物語は一見するとシンプルだが、スクリーンから溢れ出す感情の奔流は観る者を圧倒し、時に戸惑わせ、そして忘れがたい痕跡を残す。本作は単なるラブストーリーではなく、監督レオス・カラックスという存在そのもの、そして当時のフランス映画が抱えていた葛藤と野心を体現した作品だと言えるだろう。
レオス・カラックスは、1980年代に登場した「ポスト・ヌーヴェルヴァーグ世代」を代表する映画作家である。ゴダールやトリュフォーらが切り拓いたヌーヴェルヴァーグ以降、フランス映画は一度その革命性を制度化し、それ故にある種の停滞を迎えていた。そんな中でカラックスは、若く、過剰で、制御不能な感情を映画に叩き込み、再び「映画はここまでやれる」という可能性を示した作家だった。『ボーイ・ミーツ・ガール』『汚れた血』に続く三部作として撮られた『ポンヌフの恋人』はその集大成であり、同時に彼のキャリアにおける大きな転換点ともなっている。
物語の中心にいるのは、路上で生きる青年アレックスと、視力を失いつつある画家志望の女性ミシェル。二人は社会の周縁に追いやられた存在であり、安定した未来も居場所も持たない。だが彼らの感情は、あまりにも激しく、あまりにも純粋だ。愛したい、触れたい、生きたい。その欲望が理性や常識を軽々と突き破っていく様は、観る者にとって美しくもあり、同時に危うくも感じる。
本作を語るうえで欠かせないのが、その制作背景だ。この作品は撮影の長期化や予算の大幅な超過によって、フランス映画史上屈指の“問題作”として知られている。実際のポン・ヌフ橋が改修工事に入ったため、巨大なセットを郊外に再現するという前代未聞の方法が取られ、制作費は当初の想定をはるかに超えた。その結果、カラックスは「放蕩な天才」「制御不能な監督」といったレッテルを貼られることになる。
しかし、この過剰さこそが『ポンヌフの恋人』の本質のような気がする。橋の上で花火が打ち上がり、二人が夜のパリを駆け回る有名なシーンは、現実感を超えた陶酔と解放感に満ちている。そこにあるのはリアリズムではなく、感情の真実だ。カラックスは、映画を「現実を再現する装置」ではなく、「感情を爆発させるための舞台」として捉えている。その姿勢はヌーヴェルヴァーグ以降、知的で距離感のある作品が主流になりつつあったフランス映画の中で、明確な異物として輝いていただろう。
当時のフランス映画界は、国家による手厚い支援制度を背景に安定した作家主義映画を量産する一方で、観客との距離が広がっているという批判も抱えていた。カラックスの映画はその制度の中で作られながらも、制度に従順ではなかった。商業的な成功や効率を度外視し、若さゆえの無謀さと映画への盲目的な愛をむき出しにする。その姿勢は多くの批判を浴びると同時に、「映画はまだ狂っていていい」という希望を同時代の観客に与えたに違いない。
『ポンヌフの恋人』における愛は、癒やしではなく、むしろ破壊に近い。アレックスはミシェルを束縛し、ミシェルはアレックスを拒絶しながらも求めてしまう。その関係は決して理想的ではなく、現代的な価値観から見れば問題だらけだろう。それでもなお、この映画が強く心を打つのは二人の感情が一切の計算や自己防衛を拒んでいるからだ。「生きるために愛する」かのような切実さが画面の隅々まで行き渡っている。
カラックス自身、この作品の後に長い沈黙と試行錯誤の時期を迎える。『ポンヌフの恋人』は彼にとって頂点であると同時に、重すぎる十字架でもあった。しかし、だからこそ本作は今なお特別な輝きを放ち続けている。若さ、過剰さ、未完成さ、そのすべてが否定されることなく一本の映画の中に封じ込められているからだ。
『ポンヌフの恋人』はフランス映画の歴史の中で、決して穏やかな位置にはない。だが、映画が理性や洗練だけで作られるものではなく制御不能な情熱や欲望によっても生まれるのだという事実を、これほど鮮烈に示した作品も稀だろう。橋の上で交わされる二人の愛はやがて消え去るかもしれない。それでも刹那的に燃え上がった感情の光は、観る者の心の奥で強く、危うく、いつまでも輝き続けている。
作品紹介
『ポンヌフの恋人』
制作年:1991年 制作国:フランス
上映時間:125分 配給:ユーロスペース 区分:PG12
パリで最も古く美しい橋・ポンヌフで暮らす大道芸人のアレックスは、ある日、失恋の痛手と治る見込みのない目の病に苦しみ放浪する画学生ミシェルと出会う。やがて2人はポンヌフで共に暮らし始め、孤独な日々の中で絆を深めていく。ジュリアンというチェリストへの恋の未練と、画家としての失明への恐怖を抱えるミシェル。そして、他人とのつながりを知らずに生きてきたアレックス。2人の間には、次第に絆と愛が芽生えていく。しかし、ミシェルはやがて両親が自分を捜していること、そして眼病の治療法が見つかったことを知り……。
