【後編】小心者たち、伝説の原作者を訪ねる

シネマにまつわる2、3の事柄

小心者たち、伝説の原作者を訪ねる 前回のお話はこちらから

探し回って見つけたのはその地域では珍しい西洋風の外観を持つ集合住宅だった。バシールの名刺を見せると同居人の紳士が取り継いでくれてすぐにアラブ式と折衷した内装の部屋に通された。

 老作家はベッドにいた。
 拙い英語でいきさつを話し持参した本を見せると、日本語訳が珍しかったのか半身を起こしたままうれしそうに笑ってくれた。
 「あなたの本の何冊かは日本語で出ています。」
 もう半世紀近くも北アフリカの町にいる彼は自身の作品の流通についても詳しくはわからないようだった。そして、3〜40年も前に書いた本を日本人の若者が手にしていることも不思議に思ったんじゃないかと思う。
 謎の達成感と柄にもない恐縮の気持ち、見送ってくれた同居人に深く礼をして帰ったのを憶えている。

 ボウルズと会った後、僕らは残りの1ヶ月ほどの旅程を砂漠地帯に決めた。「シェルタリング・スカイ」の旅が新しい目的になったのだ。
 映画の主人公よろしく、激しい熱中症にやられた僕らは、最も美しく最も気候の厳しいサハラの村にいる間、のたうち回って数日を過ごした。日中の気温が50度前後になる夏のサハラはひ弱な僕らにも容赦などなかった。旅は先ず、つらいのだ。

 珍道中からの帰国後、旅の記憶を反復するようにあのビデオを何度か観直した。
 港町のシーン、迷宮のような旧市街。そして無表情で美しい砂丘。ロケ地はアルジェリア領地のサハラ地域を含む国境付近とモロッコ国内のいくつかの地方らしかった。
 あの映像を見返す時、あの美しいメインテーマを聴く時、体感した暴力的なまでの暑さの記憶と頭の中が麻痺するような感覚が蘇ってくる。
 
 数年後、友人は本格的にアートを学ぶためにニューヨークに転居し、僕は30代の半ばで家族を持った。
 99年、新聞でポール・ボウルズの死去を知った。88歳。僕らが彼と会ってから3年以上が過ぎていた。遺灰は故郷のニューヨークに埋葬されたとあとで知った。友人とはメールで共有した。

 そして時間は誰にでも均く過ぎた。
 昨年の3月、ベルトリッチ作品のサウンドトラックが世界的な出世作となった坂本龍一氏がニューヨークで逝去した。数ヶ月後、病床で綴った書と口述から編まれた一冊の本が出版された。タイトルは「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」。映画「シェルタリング・スカイ」の最後でボウルズが語る言葉の引用だった。
 教授自身、あの映画での仕事、とりわけメインテーマをとても気に入っていたらしい。

 老作家のあの声の記憶、あの広大な景観の記憶とともに、冷めない熱のようにいまでも消化することのできないままの感覚が僕にはある。それが僕をいまも創作活動に引き留める何かになっている。
 あの夏、身の丈を知らない稚拙で無礼な好奇心たちは「伝説」に触れる奇跡の場所にいたのだ。いまだって信じられないことだけど。

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