最初から余談になるが、ハーモニー・コリン監督作『ミスター・ロンリー』(2007年)に、レオス・カラックスと共に出演したドニ・ラヴァン(チャールズ・チャップリンのモノマネ芸人役)に向かって主演のサマンサ・モートン(マリリン・モンローのモノマネ芸人で彼の妻役)が、「時々、あなたがチャップリンじゃなくてヒトラーに見えるの」と話す場面がある(チャップリン好きはわかるヤツ)。
カラックス監督の最新作『イッツ・ノット・ミー』(2024年)を観た時、ヒトラーの実映像に、カラックス絡みの思い出せない既視感を持ったままだったのだが、最近このシーンを思い出した。
名作リスペクトが多めの『ミスター・ロンリー』には、スカイダイビングのシーンもあって(ヴェルナー・ヘルツォークが神父役!)、これなんて『汚れた血』(1986年)を連想させるし、映画狂のカラックスがあちこち脚本と演出にも口出ししたんじゃないかと勝手に考えてしまう(もちろん裏どりはない)。
『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)。導火線を火種がジワリとつたうような長編デビュー作品だと思う。
20歳過ぎという若さで、自分史を壁の地図に刻み、理想の愛と死までも夢見る主人公アレックスを演じたドニ・ラヴァンは、カラックス監督自身の分身であり、その後(オスカー役として、文字通り)モンスターと化す前触れをすでに感じさせている。
不機嫌で夢見がちな、時に老成しているようにすら見える可愛げのない小男、臆病者であることを隠しもせずに姑息な真似をするヒールのようなベビーフェイス、客観なんて全く気にしないカラックスの自己投影がスクリーンに存在する。それは自意識剥き出しのイタさを超え、むしろロマンチックにすら感じられる。
黒い川、セリーヌの朗読、奇妙な風体のシトロエンに乗った女のシーンから始まるこの白黒映画に、当たり前に筋道を追いながらついて行こうとすれば置き去りにされてしまう。難解さ?いやこれはもうヌーベル・ヴァーグ・マナーが根づいている仏アート映画ではイニシエィションみたいなものだろう。
意味もよくわからずゴダールを何本も観ていた遠い記憶の隅のある種の苦さがよみがえり、ボンネットに座らせられた幼な子みたいな半泣きの気持ちに、ぼくはなる。虚実、夢うつつ、一本の映画にそれらを同居させるイノセンスと、浮遊しているような感覚がつかめれば入り込める、といまはやっとわかる。
そして次作以降、色彩を手に入れたカラックス作品は、肉体性の強化と速度感、官能的な音楽、音響も武器にし、観る者のカタルシスをさらに誘発していく(今回の4K版ならより感じられるはずだ)。それは、もっとも激しい発火点であり、世紀末という消失点に向かって爆速で燃え尽きるような文芸映画『ポーラX』(1999年)まで続く。
カラックス作品には、どこか見憶えのある画が度々現れる。無声クラシックから先鋭作品まで、”シアターの椅子で育った”ような、浴びるように映画を観てきた鬼シネフィルの彼。古い言い方をすれば”フィルム・ジャンキー”。無数のカットが頭の中には記憶されていたのだろう。初期三作では、結末の着地点を鑑賞者自身の感性が選べるように、または再解釈を何度も行えるようにラストシーンが編まれている。そして、彼の映画の所々で見られる”時間がバグったような表現”に、撮りたいカットが頭から溢れ出てしかたないという焦燥感に近いものを想像してしまう。
作品を追うごとに、その引き出しの多さに驚かされた。そうでなかったら『ホーリー・モータース』(ラヴァンの快演ときたら!)のような一本で何本立て?みたいなメタ映画は作れないよな。
早々と学校をドロップアウトして、十代にして映画批評誌にペンを奮っていたのはトリフォーに倣った生き方なのだろうか。「いや、情熱の行方が同じだっただけ」と彼なら答えるのかもしれない。想像するに相当生意気なライターだったんじゃないか?敵も多く作っただろう。しかし、デビュー作を二十代前半に完成させた時、やっかみも中傷も吹き飛ばしただろうパリでの噂は想像に難くない。それらのどのエピソードも、トリフォーをはじめとしたヌーベル・ヴァーグの先達の名前をあげて比較したくなるのも無理のない”恐るべき子供”だったのは間違いない(具体的にもう一人だけ影響元のNV周辺のオリジネイターの名前をあげてよければ、クリス・マルケルなんてどうだろう?)。
さて。大袈裟に言ってしまえば、人生には、出会ったモノと出会った時期や順番が影響する。
もしあのデビュー長編作を本国と同じ公開時にティーンの自分が観ていたら、なんて考える(日本公開は1988年)。ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(1984年)と同時期に?それともスパイク・リーの『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』(1986年)より先に?
ニューヨーク・アンダーグラウンドよりカラックスにぼくがカブれていた可能性はかなり高い。
実際その頃のぼくは少々背伸びしてネオ・リアリズモから仏ヌーベル・ヴァーグに手を出し始めていたし、”同時代のニュー・シネマ作家”を待ち望んでいたから。しかも、その後のカラックス作品で伝説的なシーンに流れる、あのあたりの音楽、つまりナイル・ロジャースがプロデュースしてダンス寄りになったデビッド・ボウイなんてドンピシャのリアルタイムで聴いていたわけだし。
それって”人生をかえるヤツ”だよなあ、と思う。もちろん、自分のそんな年頃で、その後の『ポンヌフの恋人』(1991年)のような巨大プロジェクトになる作品をカラックスがやってのけることになるという想像も出来なかっただろうけど(以後、新作ごとに過去作の”リライト”を埋め込むのもクセになる)。
2025年に日本で劇場初公開された、ペドロ・コスタ(1959年生まれでカラックスとは同世代)のデビュー長編『血』(1989年)を観た時の印象が自分的には『ボーイ・ミーツ・ガール』と同じ種類のものだったんだった。この感じ、わかる人にはわかると思う。
どんなジャンルのアーティストにでも、デビュー作が最高なのと同じくらいに、最新作が一番イケていて欲しいといつも思っている。
2025年公開の映画を振り返ってみて考えたことがひとつある。『イッツ・ノット・ミー』、これ、年間最重要作の一本なんじゃないかって。だって、音楽のグルーヴでハイになることにも似た、42分間のカラックスによるモンタージュのダンスをぼくらは体験したんだから。あの感じは映像、音響、ポエジーが一体になったようなゴダールの実験作品の体験にやっぱり近い(“カラックスがゴダールにおくったレクイエム”、なんていうレビューも見たけど、それ出来過ぎだろ!)。
アタマでっかちに捉えればいくらでも蘊蓄は語れるだろうけど、(もちろん直接的なメッセージも含めて)あの作品を観てる間のぼくは、何度「カッコいい!」って声を押し殺したか知れない。彼の発想のあれこれが垣間見れた気がして嬉しかった。そう、”少年と少女の身を焦がす出会い”にも似たゾクゾクを体感する映画をカラックスはまた届けてくれた!そう思う。
そして、彼の初期を振り返りたいと思っていたタイミングで作品たちが劇場にまた帰ってきてくれた。Boys & girls meet Leos Carax ,again !
作品紹介
ボーイ・ミーツ・ガール
監督・脚本:レオス・カラックス
撮影:ジャン=イヴ・エスコフィエ
出演:ミレーユ・ペリエ、ドニ・ラヴァン
1983年/フランス/モノクロ/104分
2026年1月31日より、デジタルリマスター4Kで公開!
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